2019年4月28日訪城。
由利本荘市で一泊した翌日は前日の雨模様が嘘のように快晴となった。この日は、由利高原鉄道に乗って出かけ、まずは終点の矢島へと向かった。矢島はかつて生駒家が藩主の矢島藩があった場所で、最初の目的地はその藩庁が置かれていた矢島陣屋こと八森城である。
八森城は14世紀頃に信州からこの地にやってきた大井義久が築いた城で、子孫は矢島氏を称したが、矢島満安の代に仁賀保氏との戦いに敗れて滅亡している。その後、城主は何度か変わり、1640年に讃岐国から生駒高俊が転封されて矢島藩が誕生した。
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矢島神社 |
台地の先端のやや高くなった場所が八森城の本丸跡と見られ、ここには明治時代に矢島の町民によって建てられた矢島神社が鎮座している。祀っているのは国人領主から大名にまで登り詰めた生駒親正と最後の矢島藩主である親敬である。
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本丸跡からの眺め |
本丸跡からは矢島の町が一望でき、ここに城が築かれたことが良くわかる。なお、画像中央の奥に見える独立丘陵は矢島氏家臣の根井氏の居城である根井城。
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本丸跡の桜 |
本丸の桜はピークを過ぎて花吹雪が散りだしていたが、ギリギリまだ見頃といった感じで綺麗だった。植えられている桜は恐らく全てソメイヨシノと思われる。
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本丸の虎口跡? |
本丸跡は北西部に虎口跡と見られる窪みの地形の場所があり、ここにも小さな社があったが、何の社だったかよく思い出せない。
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大手門跡 |
明治時代に描かれた矢島藩の絵図を見ると、本丸跡と見られる場所は木々に覆われており、本丸より一段低い二の丸跡に陣屋と庭園らしきものが描かれている。この陣屋跡は現在は学校の敷地になっており、画像の箇所は陣屋の大手門があった場所になる。
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水堀 |
大手門跡には水堀が現存しており、一見すると北側が消滅しているようにも見えるが、絵図と見比べると堀は元々このような構造だったのが判る。ちなみに絵図では堀の無い部分には柵列や謎の水路が描かれている。
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武家屋敷跡 |
大手門跡の外側は武家屋敷のあった場所で、台地の上が武士の町、台地の下が民衆の町と別れていた。現在でも武家屋敷の土台などが残っており、特に道は当時の絵図とほぼ同じ形で残っている為、なかなか感慨深い。
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佐藤政忠家 |
武家屋敷についても1軒だけ残っており、屋根を鋼板に葺き替える等の現代的改造や修復が入っているものの、ほぼ幕末の状態と同じ形で武家屋敷が残されている。佐藤政忠は戊辰戦争では百宅口隊長として兵を率いて戦った藩士で、廃藩置県後に江戸家老だった加川退蔵から屋敷を譲り受けて移築したという。なので正確には加川家の武家屋敷だった建物でもある。
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表門跡 |
台地の上が武士の町で下が町民の町であることは先に述べたが、この間にある坂の部分には表門が設けられていた。画像の表門跡には石垣も見られるが、これが当時のものかどうかは確認できなかった。