2020年1月26日日曜日

GW北東北の桜旅:石川城(青森県弘前市)

2019年4月30日訪城。

堀越城を散策した後は南に3km離れた場所にある石川城へも立ち寄った。石川城は南部高直の父親である石川高信の居城だった城で、堀越城の大浦為信に奇襲されて落城した、いわゆる津軽独立戦争の始まりの地である。

城址碑
石川城は13の館から成る群郭式の城で、このことから石川十三館とも称する。あと、大仏の鼻のように突き出ていることから大仏ヶ鼻城という異名もある。画像の城址碑は大仏公園の北側の麓にあるものだが、ここだと大渕ヶ鼻城という名称になっている。大仏ヶ鼻城の異字体だと思うが、後に出てくる説明板と字が異なるのはどうかと思う。


石川館下段の曲輪
石川城の主郭は十三ある館(曲輪)のうちの石川館の部分で、現在は大仏公園という桜の名所になっている。この日もソメイヨシノの桜と枝垂桜がほぼ満開で綺麗だった。石川館は下段の曲輪が最も広いが、公園化で整地する際に削ったとみられるので、当時はもう少し小さかったものと思われる。


石川館中段の曲輪
石川館は雛壇状に曲輪が配置されており、屋敷があったとすると比較的広い下段かと思うが、下段はむしろ馬場や的場の跡で、中段あたりが屋敷跡かもしれない。


石川館頂上部
石川館の頂上部は狭い曲輪になっており、恐らく物見台の跡だと思われる。あと外縁部にかけて土塁が残っているが、削り残しの可能性も否定できない。


横堀
石川館の外側中腹あたりには横堀も確認できるが、もしかすると古い山道の可能性もある。


奥羽本線
石川館と南の山館との間には空堀があったとされるが、その堀がちょうどよかったのか奥羽本線が城跡を貫通している。これにより画面奥の月館、坊館のあたりは曲輪自体が削られてしまっている。


山館の背後
石川館の南にある山館は現在は果樹園になっており、平場は確認できるがそれ以外には遺構は見られない。また、山館と背後の山との間が曖昧で、散策してみたもののハッキリした縄張りの境界は確認できなかった。


八幡宮
果樹園が広がる一角に八幡宮が祀られているが、ここは寺山館の曲輪の北端部になる。この寺山館も背後の山との境界が曖昧で判断に困る。


内館を貫通する農道
画像は内館を貫通する農道だが、この農道建設時に発掘調査が行われており、内館の周囲の堀が二重堀だったことが判明している。なお、曲輪内部は残念ながら表層が削られ過ぎて遺構は既に失われていたという。


二重堀跡
画像の左下から右奥にかけて内館の二重堀が走っているらしいのだが、埋め戻されていることもあって、現状ではまったく堀に見えない。もしかすると山館や寺山館も背後の山との間に堀があって、全て埋められているのかもしれない。